先日、いわゆる『エヴァ』の解説を読む機会があって読んだのだが、それは僕にとって、かなりの衝撃だった。今まで自己流に解読してきたのだが、それは不十分だったとしか言いようがない。特に重要なのはフロイト心理学と聖書の学術的な基礎知識だ。これが欠けていると、基本的にエヴァを理解しているとは言い難いことがとてもよくわかった。そしてエヴァを理解することは、人生の意味(人間の存在の意味)を理解することに繋がってくるのである。流布しているエヴァの一般的なイメージとはおよそかけ離れた、エヴァが伝えようとしていた本当の物語の意味を掴んだ、とても重要な日となった。
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エヴァは「他者との融合」が基本的な問題となっている。心の壁たる「ATフィールド」を解き放ち、魂を一つとする「人類補完計画」。ここまでは分かっていたのだが、ではどうやって人類を補完するのか、という具体的なことは不明だった。しかしそれは仕方のないことだと思われる。生命のスープまで還元されたシンジをサルヴェイジする段階で使われた二つの単語、「リビドー」と「デストルドー」。フロイト心理学の基礎的な知識だが、これが大きく物語と関わっている。
人間を人間の形として保っているもの、他者と自分を区別するために必要な力とは、自分の生きる意志たるリビドーによる。ATフィールドとは、このリビドーに他ならない。
一方、自我が崩壊し、他者との区分がなくすには、死・破壊の欲動であるデストルドーが関わる。これが「アンチ・ATフィールド」と呼ばれるものである。アンチ・ATフィールドが展開されると、ATフィールドは浸食を受け、中和され、そして生物はその形をとどめることができなくなる。原始の海の状態まで人間は物質化され、そして魂だけが残る。
もともとエデンの園より追放された人間を、再び理想郷であるエデンの園に戻すことが人類の救いであった。これこそがゼーレの推し進める「人類補完計画」に他ならない。生命の木を出現させることでアンチ・ATフィールドを展開させ、人間を原始の海の状態まで戻し、贖罪をおこなうこと。
第26話「まごころを、君に」(映画版)では碇ゲンドウの目指す、「人間の神への進化」は失敗し、ゼーレの思惑通り事が進む。ばらばらの魂を一箇所に集め、一つの生命体となる。心の欠如の補完と単体の神=エヴァとして生きていくこと。これが碇ゲンドウの狙いだ。
僕がよく理解できていなかったのは、この点であった。この二つが頭の中でごっちゃになっていたのである。
もう一つは聖書学的知識の欠落で、生命の木、生命の実(知恵の実を食べた人間は生命の実を食べると神となる、それを恐れた神が人間を楽園より追放したのだ)の意味をまったく知らなかった。生命の木を出現させるために、それを守る使徒を倒すこと。使徒は、それを防ぐためにやってくるのだ。
ある種の物語は、読解に前提とされる知識が必要だ。それが根本的に落ちていた。恥じ入るしかない。
さて欠けた心を持つ人間が真なる幸福を求めるには、人と溶けあい、一つとならなければならない。
「ねぇ、シンジ君、私と一つになりたい? 心も身体も一つになりたい? それはとてもとても気持ちのいいことなのよ」
ここでは間違いなく性的な意味を含みつつ、同時に、人間の心の開放と一つとなることの意味が示唆されている。このことは、僕の人生の大きなテーマの一つであった。それが無意識のうちに、この『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメの表現形式の物語に僕が多大な、人生観を左右されるような影響を受けていたのだ。この物語はかなり誤読され受容されているように思われる。宮崎駿でさえ、庵野の意図するところを見誤っていた(それはしかし、しょうがないことである)。
リビドーは生への欲動であると同時に、性の欲動である。エヴァにおける性の圧倒的なイメージに無意味さを感じ取っていた僕は、読解を完全に誤っていた。性の欲動は、「何か」を開くのである(村上春樹は『ノルウェイの森』以来、そのことを何度も何度も繰り返し主張している)。「何か」を開かなければ、我々は交じり合えない。それを僕は魂の交感と呼ぶことができる。
魂の交感こそが、僕の人生の最大のテーマなのだ。僕はそのために生きている。


